神武天皇烽火伝説を神楽化 創作神楽「火山」(ひやま)


 広島市の郊外に位置する安佐南区・旧沼田町。西風新都の一角として発展を遂げる一方で、自然豊かな香りの残るこの地域には昔から住民に親しまれている山があります。沼田町を囲む山々の中で最高峰である「火山」(488m)です。小学校の校歌にも歌われ地域住民に親しまれているこの山には、古くから“神武天皇烽火伝説”が伝わります。この伝説によれば、初代神武天皇が山頂で“烽火”をあげた出来事こそが、“火山”という名の由来だとされています。また、山頂には皇紀 2600 年(昭和 15(1940)年)の奉祝に建てられた[神武天皇烽火伝説地]の石碑が建てられており、その伝説を後世に伝えています。
 第一代の天皇・神武天皇は日向の国高千穂の地を中心に日本を治めていました。しかし、各地で反抗する賊軍を平定するため、日本の中心である大和の国へ行くことにしようと考えます。
そこで、神武天皇は九州の高千穂、日向の港を出発し、船は東へと進み瀬戸内海へ乗り入れた際に、広島に入られました。
 その頃、広島では安芸津彦命という首⾧が、国の政治を司っていました。 安芸津彦命は「神武天皇の船がはるばるお出でになった」という知らせを受け、急いで五日市の倉重までお迎えに向かいます。
神武天皇は安芸津彦命の歓迎を喜ばれ、地御前の岸に上陸されました。そして、安芸津彦命の案内で火山の頂上に登り、ふもとの暮らしを眺められ、この世の平和、この地の人々の豊かな暮らしを祈り、山の頂上で烽火をあげられました。
 この後、天皇は山を下って「休山」で休まれて、山を下りられました。そして、山本の「出口」から船に乗り、祇園の「帆立」で帆を張り、対岸の戸坂に上陸されました。そこから中山峠をこえて、今の安芸郡府中町の埃宮(えのみや)に入られました。
 火山の山頂には、これを記念した「神武天皇烽火伝説地」の石碑があり、また「休山」「出口」「帆立」は地名として今も各地に残っています。

火山-のろしは通信手段、伴のシンボル


 天孫降臨の地、日向(宮崎)から神武天皇が、大和の国(奈良)に向かう途中、この山に登頂し、狼煙(のろし)を上げ、麓の伴地区民に天皇の存在を知らせたことから「火山」と名付けられたと伝えられています。
 古代より、この火山を中心とした伴地区は安川沿い肥沃な土地で、農業の優秀所として、古代山陽道も通り、「伴部駅」も設置されました。
 現在の広島市でももっとも古くから栄えた地域と云われています。
 伴中の校章にも向山、荒谷山の中心に火山が刻まれており、伴小、伴東小の校歌にも火山が歌われています。

山頂にある[神武天皇烽火伝説地]の碑
伴小学校校歌
伴東小学校校歌

 
 このように、「火山」は伴地区の「シンボル」として古代から現在まで、伴の多くの人々が眺め、生活と心の糧として、いつの世も、こよなく愛され続けています。
 ちなみに、アストラムライン伴駅からの眺めは絶景です。
 三田峠、権現峠からも火山へ登ることができます。火山から権現峠の方へ5分ほど下がったところに、展望が良く食事をするのに絶好な大岩(八畳岩)があります。

大岩(八畳岩) 
沼田のお宝発見 散策マップ/平成30年3月発行より 

三城田神楽団-岡崎神社
広島市安佐南区伴中央一丁目11番9号